「死んだ方がマシ」という言葉
朝から嫌なニュースを見た。子供が死んだ。自殺だ。原因はクラス内のイジメと教師による加担。少し前の天気予報とはもはや違う番組のようにキャスターは原稿を淡々と抑揚もなく読み進める。こういった類のニュースを見るたびに頭に浮かぶ言葉がある。
「○○するくらいなら死んだ方がマシ」
薄っぺらい言葉ばかりを使うアーティストや自分のサクセスストーリーを自慢したいだけの経営者が使う冗長な表現。心の底からそう思っているのか、単なる美辞麗句なのかはわからないが、彼らはその言葉を自ら命を絶った少年にかけられるのだろうか。
私は少年の置かれていた環境や苦悩はメディアの情報という形でしか知ることができない。少年の死に悲しみ、道を標すべきはずの教師の愚行に憤りを感じても結局私は他人なのである。
「死んだ方がマシ」
結論を言うとこの言葉についての私の持論は「NO」だ。この世に「死んだ方がマシ」だなんてことはほんの一つも無い、と思っている。もちろん賛否両論あっていい。
自ら命を絶った少年には私などには到底理解の及ばない孤独と、絶望と、苦痛と、死への少しの希望があったのだろう。それらの感情をわかった様に話すことは彼らへの冒涜だ。それでも私は少年に生きてほしかった。生きると言う選択を寸前のところで選んで欲しかった。
この世界は不公平で理不尽で残酷で、間接的に人を殺した人間がその罪を忘れ、いきいきと生きていく。死ぬことでしか逃れられなかった君の感情などこの先も知ることなどなく。
そんな人間が映画を見て涙を流し、犯罪者に腹をたて、家族を抱き、愛を知ることに激しい苛立ちを感じる。そういったものは君に感じて欲しかった。君は太宰の斜陽も、シェイクスピアのハムレットも、トルストイのアンナカレーニナも知らずに死んでしまったのかな。
親も教師も警察もが君を裏切っても、芸術だとか文学は絶対に味方でいてくれる。
天国にはもっと面白いものがあるといいね。今度どこかであったら君の好きな本と私のを交換しよう。